長い時間をあの子と過ごしたのに、なぜか顔も思い出せない。
覚えているのは、春の気配がするあの夜にみた 傷ついたような、苦しまぎれに笑うような表情だけだ。

「好きだ」
あたしだけが、その言葉を聞きたくなかった。
これは勘違いで、一時の過ちだと思いたかった。
すぐに、忘れられると。

なぜ人は行動に理由をつけたがるのか、
意味を欲しがるのか。

あたしを取り巻くすべては、まるで波のように押し寄せて、過ぎ去っていく。足跡を残しても、消えてなくなる。あたしは抵抗できず、流されていく。ずっとそうだったし、これからもそうやって続いていくだろう。

思い出したように、煙草に火をつける。

彼の栗色の髪と、同じ色をした瞳も、それを縁取る長い睫毛、大きな掌も。もう二度と、思い出さないだろうと思った。
それでよかった。
忘れる。そうすれば、波に逆らうものはない。窓から、煙を吐く。空に淀んで消えていく。
それと同じように。

彼が残したぬくもりの余韻を感じながら、ぼやけた空に目をやる。

たしかに、夜明けはそこまで来ていた。

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