12/07/21

「ときどき何もかも捨てて、どこかへ行けたらと思わない?」

23時を過ぎた海にはもうほとんど人がおらず、昼間の賑わいがうそのようだ。街灯が暗やみのなかを照らすから、波がオレンジ色に揺れていた。

あたしは、服を脱いだ。

「なにしてんだよ」彼が驚いて聞く。
「ここまで来たんだから、泳ぐしかないでしょ」
そう言うと、彼も笑った。

あたしたちは下着姿になって海へ入った。とても暗いのに、水の透き通っているのがわかった。彼の肩に腕を回して掴まり、あたしではもう足の届かないところまで進んでゆく。

案外泳げないあたしを彼は茶化しながら、「最高だな」と言った。「ほんと、最高だよね」

遠くの人影のなかから打ち上げ花火の上がる音がした。オレンジが空中で派手に旋回して、夜空を明るく照らす。
あたしたちはいつの間にか手をつないで、海のなかからそれを見ていた。

ふと、世界中にたった二人しかいないような気が、する。

このまま消えてしまえたらいいのに。そう言いかけて、やめた。

海から出ると、近くの宿泊施設から浴衣姿の人々が出てくるのが見えた。
それと同時にあたしたちは、思い出したように、つないだ手を離した。

砂浜に座り、唯一準備できた一枚のバスタオルで、二人の身体を包んだ。生温い風が、冷えた肌を撫でてゆくのが心地良い。彼は腕を伸ばして、あたしの身体を抱き寄せた。

あたしは、目をそらす。

彼があたしの横顔に、ぽつりと言った。「大丈夫だよ」なにがかは聞かなくてもわかった。

涙が出そうだったから、彼の肩に頭を載せて目を閉じた。彼の鼓動を聴くのと波の音は、なにかが、どこか、似ている。

去年もこの海に来たことを、あたしは彼に言い出せずにいた。なぜならそのとき隣にいたひとのことを、話さないといけない。

帰りの車のなかでの彼の選曲は、アメリカの女性ミュージシャンだった。中学生のとき大好きで、初めて買ったCDが彼女のデビューアルバムだった。当時19歳だった彼女の歌からは思春期独特の思想を感じられて、あたしは憧れていた。

けれど高校生になってからはめっきり聴かなくなって、ついに売ってしまい、あとになって後悔したのだと伝えたら彼が、「このアルバムは最近のだけど、貸そうか?」と言ってくれた。

あたしは、答えられなかった。

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